春の風の匂いに包まれて


















「春はいいですねー。」





そんな呑気な声が、干されているシーツの向こう側から聞こえてくる。
その声に動かしていた手を止めると、持っていたクナイや手裏剣を隣に置き、ゆっくりと縁側から腰を上げる。
商売道具、というにはどうも合わないが、自分の体の一部とも言える道具なだけにじっくりと時間を掛けて、手入れをしていた。
すっかり綺麗になったそれらを満足げに眺めると、ずっと同じ姿勢で作業をしていたせいか、肩やら腰がすっかり固まっているようで、
ゲンマは解すように肩を回し、両手を挙げて大きな伸びをする。
すると、今度はシーツの向こう側から、“フフッ”と笑う声が聞こえてきた。


「んだよ?」

「なんでもないですよー。」


なんでもない、などと言いながらもまた、楽しそうに笑っている声が聞こえてくる。
何がそんなに楽しいのか、まるで自分が笑われたかのようにすら思われるその行動に、ゲンマは少し眉間に皺を寄せたが、
その表情はシーツに遮られて相手には伝わるはずもなく。
ゲンマは小さく、音にならないぐらいのため息を一つ、ついた。


「春はいいですねー。」


がのんびりとした口調で、同じ言葉を繰り返す。
“そうだな”、も、“わかってるよ”、も、その言葉に返すにはどこか似合わない雰囲気を持っていて、
ゲンマはただ、何も答えず、そっと物干し竿へと近づく。


「ダメですよ。」


あと少しで、シーツに手が掛かるというところでそれを静止する声が掛かる。
“なんでだよ?”、そうゲンマが問えば、楽しそうに笑う声だけが返ってくる。
先ほどから全く意味のわからないゲンマは、不快感で胸がいっぱいになっていた。

しかしながら、それは間にある、この薄っぺらい1枚の布のせいで伝わっていないようで。

ゲンマの気持ちとは裏腹に、は楽しそうに笑っている。
その真意を探るためにも、このシーツを取り払いたいのにそれを止められてしまう。
どうにもできない状況のゲンマは、ぐっと楊枝を銜えている口に力を入れた。


「春はいいですねー。」


ゲンマの気持ちを知ってか知らずか、また同じようにゆったりとした声でが言う。
それに苛立つ気持ちはあるものの、だからといって、それをぶつけることは明らかに間違っているとわかる。
ゲンマは、気持ちを抑えながらゆっくりと口を開いた。


「…さっきからそれはなんだ?」

「何って…春はいいな、ってことですよ?」

「それはわかってる。じゃあ質問変えるが、そのわざとらしい敬語は何なんだよ?」

「練習。」

「は?」


理解し難い返事にゲンマが呆気に取られれば、がまたクスリ、と笑うのがわかる。
今度こそ、間を遮っているシーツを取ろうとするが、すかさず、がまたそれを静止する。
大きくが深呼吸するのが聞こえると、その後に声が続いて聞こえてくる。


「いつか、歳を取って、ゲンマと私がおじいちゃんとおばあちゃんになったときの練習ですよ。」


パンパン、とシーツを叩きながらがはっきりと言葉を紡ぐ。
その表情は、相変わらず見えないが、その仕草から、その声から楽しそうにしているのがわかった。


「いつか、今日みたいな春の日に、縁側で、“春はいいですねー”、“そうですねー”みたいな、
 全く意味のない会話を繰り返すんです。」

「なんでまた…?意味がねぇって言うのに…か?」

「内容に意味がなくても、そこに2人でいられることに意味があるからですよ。」


が言った言葉の意味が一瞬、掴めずにゲンマが口で揺らしていた楊枝を止める。
“敬語の方が味があるでしょ?”と、相変わらずが楽しそうに付け足しているのを聞いて、
そのの描く姿をゲンマも想像して、ふっと鼻を鳴らして思わず笑ってしまった。


「そんな未来、どうですか?」

「…いつからそんなこと考えてたんだ?」

「ここからゲンマが道具の手入れしてるのを見てて…なんかいいな、って思った。」


“あ、敬語忘れてた”、というにゲンマが“もういいだろ”、と笑う。

ゲンマは少し恥ずかしい気分になった。
が自分を見ていることには気付いていたが、まさかそんなことを考えているなどとは思ってもみなかった。
物珍しさ、とか、休みにこんなことをしている自分に呆れている、といったような類の視線だと思っていた。

―可愛いこと、言ってくれるじゃねぇか

恥ずかしさを通り越して、今度はへの愛しさが溢れる。
そうするとまた、自分の顔が綻んでいることに気が付いた。

パンパン、と忙しなく、がシーツを叩く音が空へ響く。
きっとこの天気で、生地の薄いシーツはもう乾いてしまったのだろう。
音を立てて叩いているのも最後の確認といったところだと、その様子を見ていてなんとなくわかった。


「今日は気持ちよく寝れそう。シーツが春の匂いが…春の匂いっていうか春の風の匂い、かな。」


ほらほら、とゲンマの方へ、シーツを押し当てる。
鼻につけて嗅がなくとも、その匂いがふんわりと伝わってきた。


「太陽も、芽吹いた草木も、きらきらしてるものすべて吸い込んだみたいな匂いみたいじゃない?
 春らしい匂い、って感じで…。」

「ああ。そうだな。」

「ぐっすり寝れそう。もう、こうやってシーツに顔をつけてるだけで眠たくなる…。」

「…?」


ふいにその名を呼べば、すりすりとシーツに肌を寄せていたが、“何?”と聞き返してくる。
ゲンマが何も答えずにいれば、間を隔てているシーツを捲ろうとしているのがわかった。

が、それより早く、ゲンマ側からシーツを捲り、の方へ落とす。
バサリ、と音を立てての頭に落ちると、はシーツが地面に付かないよう腕いっぱいに受け止めていた。
ゲンマも同じようにシーツを落とさないようにしながら、を腕の中に抱きしめる。


「…どうかしたの?」


驚いた顔をシーツの合間から覗かせて、ゲンマを見上げながら問う。
ゲンマはただ微笑むだけで、とシーツを抱きしめた腕にそっと力を入れた。
もくすぐったそうに微笑みながら、口をまた開く。


「ゲンマもすっごくいい匂いする…春の風の匂いだね。」

も、な。」


「春はいいですねー。」

「そうですねー。」


そんな言葉を交わして、顔を見合わせて、笑いあう。
先ほどまで、2人を隔てていたシーツはくしゃくしゃになっていってたが、そんなことは気にしてなかった。

―いつかまた、こんな春の日がくるのだろうか

ふとそんなことが思い浮かぶと、ゲンマはそのいつかの日に思いを馳せて、
それを楽しみにしている自分がいることがわかった。
思わず、笑みが零れて、それが声にまで変わってしまいそうになる。

―ああ、そうか

先ほどまで楽しそうに笑ってばかりいたはこういうことを考えていたのか、と
そのときになってやっと理解できた。





「…おじいちゃんとおばあちゃんの前にさ、まずはこんなくらい真っ白なドレス、着たいな…」





悪戯するように微笑みながら呟くに、“それも遠くはないかもな”と今はまだ心の中だけでゲンマは答えていた。


















―ふわり、と春の風の匂いが2人を包む






そのにおいは、あたたかくて、やわらかくて、やさしかった―


































アトガキ
web拍手未公開、です。
お題の1つ目なのですが、実はなかなか思い浮かばなくて…ですね…
結局、あまりお題と関係ないようなお話になってしまいました。
できるだけ、このお題ではふとした瞬間の話を書こうと思っています。
2人でいる幸せ、みたいなものを…と。





2006.7.18 up



春の風の匂いに包まれて*close